午前2時の正夢

これは夢か現実か?とりあえず眠ることにしよう。

ご自愛と経済活動

疲れが取れない

どうも疲れが取れない。
何が原因というわけではないが疲れている。
こういうときは大抵人の評価に怯え、顔色を伺っている。
段々と思考と体がバラバラになる。
眠りが浅くて呼吸も浅くなり無力感に襲われ始める。

世の中にある疲れちゃったんだよねと言うやつはきっとこんな始まりなんだと思う。
困ったもんだななんとかしなきゃという焦りだけがある。

世にはびこるご自愛は消費活動

まあ、とりあえず回復しなくてはといろいろと手を出してみるべく調べてみる。
調べてみてわかった世の中にあるご自愛リストなるものは消費活動ばかりなのだ。

有名なレストランで食事する。
温泉やサウナにいく。
買いたかったものを買いに行く。
ライブにいく。
旅行にいく。
などなど。これらは基本的に一人でできなかったりお金払って何かを得ることがおおい。
まあ資本主義の輪の中にあって自分で生産できないことを得ようとしたらお金払うのからは逃げられないんだけど、その消費の種類がなんか気に食わない(言語化下手)

自己顕示欲を手放す

言語化がヘタなりに考えた結果たどり着いたのは自己顕示欲を手放してやりたいことをすることなのではないかということだ。
有名なレストランでの食事やSNSでみたサウナや温泉は結局はそこでなにかを体験した自分をどう見られるかがつきまとうのではないかと思う。

ほんとに自分が食べたかったものなのか?
ほんとにその温泉に行きたかったのはなんでなんだとか。
そんなものを突き詰める必要もないとは思うけど。

とはいえ、自己顕示欲を手放さないとほんとにご自愛はできないんだろうなと思った。

身体性と主観が大事なのではないか

消費を突き詰めると際限がなくどんどんと沼に突っ込んでいく。
ほんとに自分が求める美味しいものは何だろか。美味しさとは何だろか。
考えるに身体性ではないかと思う。

料理と向き合ったりこれは美味しいとか、これは好みじゃないなとかみたいなことに集中することつまりは自分の体のフィードバックと主観がだいじだという結論に至った。

まとめ

というわけでほんとに自分のこと大事にしたいなら携帯置いて、SNSから離れて
自分の体のフィードバックを信じてなにかをすることが大事なんではね?と気がついた。
さてこんなことをブログにかいてないで寝ようね。

ChatGPTはジュニアプログラマの仕事抹殺の夢を見るか?

「ChatGPTによって新人デザイナーや新人プログラマの仕事はなくなる」についておもっていることを書きなぐる
結論、新人プログラマ/新人デザイナーの仕事はなくならない。スキルが低いから仕事を奪われるということはないし、むしろ学習の上の知の高速道路が更に整備されただけ。

なぜ無くならないといえるか。

portalshit.net

基本的にこの記事に集約されている。
求められるスキル水準は高くなるが、結局人をプロダクト開発の中で育てないとその会社は死ぬ。
ChatGPTのようなものが何を奪うのかを議論している人たちはある種の終末思想を語って民衆を先導する良くない例だ。

単なる作業者の仕事を奪う可能性はあるだろうが、それは作業の質が変わっただけでアウトプットは変わっていない。
パラダイムが変わらない限り新人を雇い続けるべきだ。そして育てていき一人前にするのが組織の果たすべき責任と言える。
ChatGPTのようなものがもたらすのはむしろジュニアエンジニアの仕事を奪うことではなく、シニアな人の試行回数を格段に増やし給与以上の働きを助けるものだと思っている。
つまりは道具は使いようなわけで、どう使ういこなすかで成長は大きく違うし仕事を奪うというセンセーショナルさに引かれては行けないんだろうと思う。

何を作るのか、どう作るのか、コンピュータ科学の観点からサービスや世の中の事例をどういうふうに解釈していて何を作らないのか。それを判断し理由を持って説明できるというのが一人前の証かもしれない。
ChatGPTは真似事をしてそれっぽいことを返してくる。それっぽいが本当に今の自分にとって有益かどうかを見極める審美眼が問われている。

アラサー独り身の問題点

独り身だと思った通りの明日が来て、思っていたような日常が平坦に続くことが問題だと思う。
特に一人で暮らすと。
想像通りってのが問題で、いつも以上に能動的でないとこの想像通りを越えられない。人間は精神も体も壊れないようにブレーキをかけてしまうようだ。
どうやって想像通りを超えてやろうかと画策ていると時間は足りねぇわ金は足りねえわで結局予想通りの毎日のコスパに良さに甘えてしまう。

この時間と金が足りねぇのはまあなんとかなるとしても、肝心なのは体力と気力だ。

自分自身が柔軟な思考や素直さを失うときっと思ったとおりにしかならない日々がやってきてしまう。
体力がないと行動の量が増えなくて失敗もできない。

失敗を意図的に避けてしまうのも問題っちゃ問題だけど、体力がなくて失敗までたどり着けないとか失敗の質が上がらないってのは良くないと思う。

まあ何にせよ外に出て、人と関わって初めて自分の生活ってのが始まるんだなと思う。

恋愛とか結婚にたいして考えていること

恋愛とか結婚にたいしてポジティブである。

在宅勤務になってから線形な予想可能な自分の範疇で収まる生活が続いている。 誰かと過ごして自分でも予想しないようなことが起きたり、自分だけで完結しない毎日が送ってみたい。 自分だけで完結しない日々の中で隣でいる人と同じ景色をみて感想を言い合いたいし、好きな人のいい顔が見てみたい。

このまま線形な毎日が続いて年老いるのを怖いと思っている自分がいる。 とはいえ、こうやって老いや孤独が怖いくせに孤独を喜んで受け入れてしまう自分の性格は結婚や恋愛とかに向いてないと思う。

色付きだからといって特別とは限らない。

お題「子どもの頃に勘違いしていた、ちょっと恥ずかしいこと」

面白そうなお題を見つけたので駄文を書きなぐる。
小さい頃、色がついている食べ物はその色から連想される味がついてて特別なものだと思っていた。

そうめんに入ってる赤いそうめん然り、紅白かまぼこの赤い部分然り。

赤い部分何故かアレだけで食べたくなりません?なりますよね?

ある程度の年齢になってあの着色されてる部分は特に味が変わらんことをしって絶望した。
当時から梅干しの味が何故か好きだったので赤い部分は梅味だと思いたかったのだ。
じぶんが好きな味がちょっとだけレアアイテム扱いされるなんてなんて素晴らしいことか...!とか思ってた僕の純粋さを返してほしいw

という恥ずかしいと言うのか間抜けなエピソードを思い出したのでこの記憶がうすれてしまわないように残しておく。

最近忙しすぎるのか、新しい情報を湯水の如く脳に突っ込んでいるからなのか、思い出すことをしなくなったからなのか、理由は闇の中だけど昔のことが思い出せなくなっている。

特に小・中学生のときにどんな先生がいたとか、だれがだれのこと好きだったとかそういう話題は本当についていけない。
地元に帰って飲み会に出るたび思い出せなくなった自分を東京に染まったなんて言って笑いの種にしてるけど、ホントのところはちょっとさみしい。
それと同時に地元の友だちと話が合わないことにホッとしてる自分もいる。

普通なんて嫌だ自分は特別だ、同じ人生をあるきたくないと必死になっていたことがある意味で達成されているんだから。 友だちとの飲み会で友達の肩越しに自分の嫌な面を見るなんてなんて生きづらい性格なのかと思うときもあるが、それでいいのかもしれない。

小さい頃味がついてて特別だと思ってたそうめんは実は他のと味が変わらないように、 僕も住む場所をを変え、付き合う人をかえ、自分を必死に色付きのそうめんのような存在にしたいともがいたが本質はそうめんであり、味が変わらないのである。 赤く染まった俺の味は確かに違うのか?その問の答えは誰も知らない。

お、夜明けの合図
向かいのパン屋からバターの焼ける匂いがし始めた。そろそろ寝よう。

東京。遥かに遠い実家。

1年前に自分がなんで家族写真を撮ってるのかを書き残しておこうとブログを書いた。

rem-rem.hatenablog.com

あれから1年。『めんどくさいこと』は『めんどくさいこととして受け継ぐこと』に意味があるのでは?と思うようになった自分がいる。

ここまでをふと振り返ったときに思ったことがある。
僕は東京に逃げてきて、家族や地元の友だちと距離をとって初めてこういうことに気がつく人間なのだということ。

18歳のときなんとしても東京に行きたかった。
このまま愛知県の片田舎で人生が終わっていくのは絶対に嫌だと強く思っていた。だが、勉強ができるわけでも特別な才能があるわけでもないので親のスネをかじって大学生という形で東京にきた。
ずるずるとこのまま地元に戻るなんてありえないという思いが心の奥底で発酵して(腐敗かもしれない)今に至る。

自分勝手に自分の『こうなりたくない』から逃げた。
たまに実家に帰るけど3泊もすれば十分だし、母の発する皮肉も嫁姑問題もなんだかんだでお腹いっぱいでかえりてぇなと思っている。(東京に帰りたいという表現がそもそも傲慢な気がしてきた)

だけどまあ血の繋がりというのは関係性の一つなわけで、距離がないとわからないことがあるなとも思う。
事実僕は家族という関係性の儚さに25をすぎるまで気が付かなかったし、ばあちゃんが長寿のギネスを更新したとしてもあと20年したら一緒にいられはしないのだということに気がつくのに時間がかかってしまった。

つらつらえもなことを書いているが、結局実家というところに帰ると学びを得るくらいに実家は遠くなった。
実家と自分の距離を近づける努力を怠って学びを垂れ流すくらいに都合いい場所になっているのかもなと思った。
どうしたいかまだ結論が出ないのだけど、これでいいのかなあという気持ちはある。
どうしたいかはわからないが、どうすれば後悔が少ないのかはわかってるきがする。

というところで、こんなブログでお気持ちたれてる場合じゃなくてばあちゃんにLINEすることが先なんだよ。

師匠は一人いればいい

なにかを始めたとき自分の行動やアウトプットにフィードバックをしてくれる人を持つと成長が早い。
メンターというとかっこよすぎる気もするのでここでは師匠と呼ぶ。
インターネットを見渡すといろんな人がいて自分より優れた人は多くいる。
なので賢い人はいろんな人のいいところをつまみ食いして切り貼りすればより良くなるに違いないと思うだろう。
だが、現実では切り貼りはすぐに偽物感になる。こいつは良いと言われているものをつまみ食いしてるだけで大して自分の考えがないとバレてしまう。

なので師事する人は一人が良いと思う。
プログラムでLeetCodeのような問題を解くことを例えに出すとしたら、

  • 師事する人が自分と同じ状況になった時に何を考えるのか?
  • 自分との考えの差はなにか
  • どういうバックグラウンドの知識が差を生んでいるのか
  • 何を勉強するとその差が埋まるのか
  • 解決策を考えたときに何を優先し何を犠牲にするのか

この辺を近くで見て、学び、壁打ちしてフィードバックをもらうことで2人が成長できる。
表面的にいいとこ取りをすると結局計算速度が早いから→なんで計算速度を優先してるの?→特に理由はない
のようになってしまい結局コードがなんとなく書けるだけになってしまいかねない。

全く話題としては変わるが最近ギターに再入門した。
まずはYoutubeに転がってるギターの講師などの動画を20本くらい見て回った。その中で自分が一番見ててストレスが少なくいいなと思う講師で登録者とGood評価が多い人を師匠とした。
その人が上げている基礎練習を毎日業務が終わるとあーでもないこーでもないとしてるけど、いろんな人の練習動画をみていたらおそらく一向に曲が引けるとか運指がうまくなるとかないんだろうなと思った。

そのエピソードを抽象化すると結局何事も師匠とする人はひとりでいい。それにじっくり結果に大して焦らず、自分の現在位置からできることやわかることを伝えられフィードバックされることが重要だと悟った。
プログラム書くときもそうだと思う。

新年でなにかやるぞ!と思っている人も多いと思うけど大抵の人は続かない。
みんな早く結果がほしいし、コスパの悪さが気になり始めたりできない自分が嫌になってしまいやめていく。
そうならないためにも師匠的な存在は大事なんだなと思った。

なんか意識たけぇなおい。
15分くらいで書いたお気持ち文章ですw