午前2時の正夢

これは夢か現実か?とりあえず眠ることにしよう。

働くときの期待について

note.com

このエントリーを読んだ。

内容は論理的でわかりやすい。なぜその会社で働くのか、どうありたいのかが明確に底にそこに至るまでの考えてきたこととともに書かれている。

このエントリーを読んで自分の中で言語化されたことがあったのでまとめておこうと思う。

やりがいとはなにか

(中略)

3a. 社会的な使命がある。例えば、地球の環境問題を解決したいと心から思っている人がいれば、報酬や居場所を無視してでもそれをやるのがよさそうです。

3b. 自分が作ったプロダクトに愛着がある。普通に働いたほうが儲かるけど、1から作ったものを育て続けることを優先する人の気持ちはわかります (パッと売却して次に行く人もよく見ますが...)。

3c. 技術的にどうしてもやりたいことがある。「とにかくElixirを使って開発したい」のように、技術的な興味が何よりも優先される場合は、報酬や居場所の良さを無視することはありそうです。

3d. 事業運営をすることで自分に報酬以外の利益がある。言ってしまえば「自分がよく使っているサービスを運営する側になる」ということです。自分の労働が直接自分の生活をよくすることにやりがいを感じる気持ちはわかります。

この部分の言語化がとても自分にとっていいものだとおもった。

自分が新卒のときに企業を選ぶ基準をいくつか持っていたけどその中で生活に寄り添いつつも儲かってる事業をしていることを上げていた。

この基準を設けた理由はいいサービスを展開している会社は世の中にはたくさんある、でもいいサービスで競合を意識しつつ生き残る戦略があるところでないとなんでそのプロダクトが選ばれるのかがわからないからと思っていたから。

その基準に基づき今の会社に入り、ある広告業界の中のあるカテゴリーでは大手にいる。当然その中で色々と考えることがあり、エントリーを読んで明確に言語化がなされたことがある。

広告は人々の生活に寄り添うことができるかもしれない。でも実際に意識すべきはクライアント側だった。そして既存のルールや会社の利益構造を超えて理想を実現するのは大変に困難でありエンジニアであるだけではパワーが足りないと感じた。

もっと噛み砕いて雑な言い方に直せば、自分が頑張って広告周りのプロダクトを生活者に寄り添うものにしようとあがいてリリースしても実際にその変化がわかる生活者はほとんどいない。広告は相変わらず厄介者で、ほんとに生活を豊かにしているのか怪しい。誰の役に立つのかわからないものを作り責任と重圧の中で開発をするのは苦しいと言うのが本音になった。

広告で「人の生活情報を変えること」「役に立つ広告を作ること」が期待だった。

しかし現実は期待に答えられない状況だ。それは組織、業界、自分の努力などなど様々な変数がある。しかしコントロールできるものといえば自分の期待と技術や時間を何に投資するのかという部分だけだ。

言語化をして改めて立ち戻るのはいったい自分は何をなしたいのかという部分。

何ができてたら幸せでその純粋な部分をどれくらい自分が把握できるのかが大事だし、それ以上に手元の技術を伸ばして行く努力がだいじなんやろうなと。