午前2時の正夢

これは夢か現実か?とりあえず眠ることにしよう。

健全な悩みと意味のない悩み

こういう二元論がナンセンスなのは百も承知だ。 だが今回はわかりやすくするためにこのような書き方をする。

すべてはグラデーションだ。そして健全とか意味ないとかは 本人の状態や目指す先においてという枕詞が隠れていることを忘れないでほしい。

最近の気付き

最近自分の身の振り方や今後どうなっていこうかということに漫然とした不安を覚えた。
でそれ悩んで時間の無駄かなとかきついと思ったのだけど、これ系の悩みには確固たる正解がない。
というか各個人にカスタムされた最適解を作って行くのが本筋なわけできつくて当然なのだ。

考える価値のある悩みとそうでもないものがある

走りながらその痛みを受け入れることができるかどうかなのだと思う。
一番良くないのは痛みで足が止まること。
痛みで足が止まるものは悩む価値がない。

走りながら解を作ってそれの最適化をする。
それができるもの、やっていかなくてはいけないものは悩む価値がある。
苦しさで息切れしてしまうもの、痛み自身を受け入れられないものは 自分の身の丈にあっていない。
身の丈にあっていない悩みは経験やインプットが足りないのでまずは忘れるのが一番いい。
身の丈あった悩みはもっと他にある。
考えるべきことはもっと他にあるのだ。

苦しさで悩みを排除しない

ただ、走りながら解を作り検証をする作業はとてもきつい。
その苦しさを体育会系では『成長痛』とよぶのだろう。
この成長痛すらも嫌で悩みを排除してしまうときがある。
(精神的に疲れていたり、肉体がついてこないときはにげてくれ。)

ただ悩むべき悩みというのがあり、それから逃げても先はない。
ゆでガエル状態とか詰んでるみたいな状況はこういう態度から来ていると個人的に思っている。

まとめ

  • 悩みには身の丈という概念がある。
  • 身の丈に合わない悩みは悩む価値がない
  • 身の丈な悩みは全力で悩んだほうがいい。
  • 悩むときは走りながら。

こんなところだろうか。
足が止まっている状態が悪いわけではない。と思う。
人によっては立ち止まる瞬間が必要だ。

ただ俺はこの投稿で言いたかったのは、むやみやたらと悩みを捨てるなよといいたい。
自分の内側からくるモヤモヤを無碍にしてはいけないと思う。
苦しいのも自分の人生なわけで手放して楽になったら未来が明るいとはかぎらんだろって思う。