午前2時の正夢

これは夢か現実か?とりあえず眠ることにしよう。

悩みの鮮度と熟成度

悩みには2つの軸がある気がしている。

鮮度と熟成度だ。

鮮度というのは悩みが発生してからどれくらいの時間放置されていたかというもの。
悩みは放置すると腐る。
今必要のない悩みなのにいつまでもそこにあるようなのは鮮度の悪い悩みだ。

悩みは鮮度がいいうちに対処方法を実行するのが大事なことだと思っている。書き出すでもいいし人に話すでもいい。
何かしら目に見えたり聞こえたりするようにすることに意味がある。

熟成度というのは言語化された悩みに対してどのくらい問を重ねたかやどのくらいの行動をとったかというもの。
ただ言語化しただけでは悩みはどんどん鮮度をうしなっていく。
鮮度を失うのと反比例して熟成度を上げるか、捨てるかしないと総量が減っていかない。

悩みの熟成度は行動と問いの練度で決まると思っていて、正しく問えるか行動を起こして新しい側面を見つけられるかと言うのはとても大事なことだ。

年齢の上昇とともにこの鮮度を保つ技術と、熟成度を高めて行く技術を上げていきたい。

熟成度が低い悩みでいっぱいだと年齢よりも幼く、人の悩みを聞いたり一緒に考えたりするというのは困難なのではないかと思う。

鮮度の悪い悩みでいっぱいだとその人は言語化や悩みに対しての対処がずさんなきがする。

いろいろと考察してみたが結局正解はない。
こんなふうに考えられるよねというだけで人の数だけ悩みはある。
もし仮に相談されたのなら正面から相手の話を聞きたい。何ができるだろうかと考えたい。ただそれだけだ。

でもその「ただそれだけ」難しくて、余計なことを言ってしまったり相手の言語化を遮ってしまったり。
はたまた余計なことを言ったことで相手が悩みの本筋を誤認してしまうなんてこともある。
悩みを聞いたときに私からはこう見えるよというのは実はおせっかいなだけでなくむしろ害すらあるのかもしれない。
コミュニケーションって難しいなっておもう。