やはり自分はどうしようもないやつなようで、最近ようやく寂しいとか孤独ってものの意味が実感できてわかるようになった。
今の自分が言語化する孤独とは「共有、共感したいのにできない心の状態」であると思う。
SNSが発達して誰とでも繋がれる。SNSにいくらでも吐き出せる。なのに孤独って、どういうことだって思ってきたけど吐き出せることと実際に吐き出したものが共感されるかとか個人間で共有されるかってのは別問題だ。
むしろ可視化された繋がりの中では空中にふわふわと浮いて誰にも触られもしない話題が明瞭になっていてる気がする。
たのしかった気持ちがどうにも共有できなくて、些細な日常の機微が報告できなくて段々と人は孤独になるのかもしれないと思う。
大事なものを失って、楽しい気持ちのやり場がなくなってどうしようもない気持ちと折り合いがつかなくなって初めて寂しいってことがわかるようになった。
今まで感じていたのは恐怖だけだった。一人になる恐怖。誰からも見向きもされない恐怖。
でも今度は違う。薄い恐怖の膜の奥にはもっと暗くて冷たい何かがいた。ようやくそれがおぼろげながらわかるようになった気がしている。
つらつらわかったふうなことを書いた。
んで、大事なのはどう有りたいのかであると思う。
自分は今度は大切なものを失わないようにまともになろう。驕りや何ができるではなくて当たり前が当たり前にできるようになろう。今度こそ逃げずに正面から大切なものと向き合おう。
そう思う。今までは逃げる余地があってそれに甘えてきたんだ。
もっと人の痛みがわかるようになりたい。自分の痛みは人に預けずとも解決できるくらいには大人になりたい。どう行動したらそうなれるのかまだ試行錯誤中なのだけどわからんなりにもがいて前に進む。